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宇都宮家庭裁判所烏山出張所 昭和48年(家)66号 審判 1973年5月11日

申立人 沢本邦夫(仮名)

主文

本籍栃木県那須郡○○町大字○○△△番地の△筆頭者沢本俊江の戸籍中長女邦江の死亡年月日「昭和四七年一一月一二日午後三時五分」とあるを「昭和四七年一一月一三日午前五時三〇分」と訂正することを許可する。

理由

本件申立書、申立人審問の結果、沢本邦江(除籍)の戸籍謄本、医師中山敏雄作成の「死体検案書訂正理由について」・「○ア登山計画(写)」・「昭和四七年一一月一二日○○岳の事故について」と題する各書面の記載、申立人提出の写真一葉(本件事故直前沢本邦江撮影と推定せられるもの)を総合すると以下の事実が認定出来る。

申立人の長女邦江(昭和二三年九月一八日生)は昭和四二年三月栃木県立○○女子高等学校を、同四六年三月○○女子大学家政学部生活科学科を、各卒業し中学校一級普通免許を得、同四六年五月より埼玉県浦和市立○中学校教諭、同四七年四月一日同市立○○小学校教諭となつていたものであるが同女は同四三年四月ころより○○女子大ワンダーフォーゲル部に所属し休暇などを利用しそのころから丹沢、尾瀬、奥多摩、日光、那須、奥秩父、大菩薩など関東地方や上信越地方の各山岳地帯に親しみこれらの山野を跋渉し合計一四〇回(延日数二四〇日)に及ぶ登山歴をかさねていたもので同四七年一一月一一日(土曜日)より同月一五日迄の期間に○アルプス○○岳登攀縦走を単独にて挙行すべく同月一一日午前六時五〇分新宿駅発(アルプス一号)にて単身出発し同日午前一一時三五分ころ○○駅着同駅よりタクシー(合乗り)にて○○(午後一時ころ)に至り○○(午後一時四五分ころ)、○○(午後二時三五分ころ)、○○山荘(午後三時四五分ころ)を経て○○小屋(午後四時五二分ころ)に到着し同夜は同小屋に宿泊し翌一二日午前四時五五分ころ同小屋を出発し○○ロッジ(午前五時五〇分ころ)、○○小屋跡(午前六時五〇分ころ)、○○、○○小屋(午前一二時五〇分ころ)を経て同日午後二時四五分○○山荘冬期小屋に到着、同夜は同小屋に宿泊し翌一三日午前五時五分ごろ同小屋を出発し○○尾根(○○ヒュッテ)へ向い同日午前五時三〇分ころ尾根を滑落しその際自己の所携のピッケルの尖端部が右脇腹より右肺を突刺したため右肺損傷により(深さ10cm余傷害)死亡したものと推定せられる。なお、当初本件遭難事故を発見した際の状況によれば、前記一一月一二日は相当悪天候であり、遭難者(邦江)の所持する登山計画書によれば一二日は○○山荘冬期小屋に宿泊の予定でなかつたのみでなく、当日中に○○ヒュッテに向かうようになつていたため死体の検案をした医師やその立会人等も一二日中に本件遭難が発生したのであろうと推定し、その旨の検案書を作成しそれにもとづいて戸籍上死亡届が提出されたため、戸籍簿に「昭和四七年一一月一二日午後三時五分」という記載がなされたのであるが遭難者の実父である申立人はこの点について疑問を抱き、遭難者の足跡をたどり約六箇月にわたり現地踏査をしかつ又当時同コースを通つたり山小屋に同宿した人々をつぶさに捜し求めたり、山岳雑誌に記事を登載したりなど百方手を尽くした結果遭難者が途中計画を変更し一二日夜は前記山小屋に宿泊し翌朝(一三日)午前五時五分ころ同所を出発したことをつきとめることができたのであつて、本件死亡時刻は同日午前五時三〇分ころと推定されるのは叙上の各証拠に照らし正当と言いうる。

それ故、本件申立は理由のあるものと思料せられるので戸籍法第一一三条を適用し主文のとおり決定する。

(裁判官 藤本孝夫)

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